星がきらきら

Mais comme elle est loin!/遠き七つの星へ愛を

宮田俊哉「境界のメロディ」読書記録

※ネタバレを含みます

 

アイドルが好きで、物語も好きな一人のファンとしての感想は、以下になる。

 

構成的にも、キャラの魅力的にも、読んでよかったと心から思う物語だった。

特にユイの前でライブをする、という当初の目的が達成されてから、物語としてのゴールが移動し一つではなく複数の問題を解決する物語であることが明かされる構成は、読んでいて驚きがあった。各キャラクターは生き生きと物語を動かし、最後にキョウスケとカイの二人に焦点が絞られタイトル回収が行われる流れも、終始読んでいて心地の良い展開であることも読書体験としてとても楽しかった。

 

 

そして、ブロガー(笑)としての感想が以下になる。

 

私は事務所のテキスト担なので*1、各タレントのエッセイなども時々読んでいるし、当然事務所初の作家である加藤シゲアキの本も全作とは言わずとも割と読んでいる。

何が言いたいかというと、この本を読んで(何なら発売前時点の宣伝を読んで)思い出したのは、加藤シゲアキの「閃光スクランブル」だった。

彼の処女作である「ピンクとグレー」もある種映画作品を通した生者と死者の対話みたいな話で、男二人で進められていく物語の中で共通の知り合いである女と死者側の親類が物語のターンポイントに登場する話でもあるので類似点は見受けられるのだが、物語の読了感はどちらかというと「閃光スクランブル」に近かった。

この話では、物語の中盤、中村一義の「キャノンボール」という曲の歌詞が印象的に引用される。

「僕は死ぬように生きていたくはない。」

この物語の主人公の片方は大切な妻を交通事故で八年前に失い*2、それ以降、生業としていたカメラを妻の生前とは同じ形では扱えず、人と必要以上に関わらず文字通り死ぬように生きていた人間だった。このフレーズは、妻の墓参りの場面で、妻の声として(あるいは幻聴として)主人公に「キャノンボール」を歌うことを要求することで登場する。つまり、境界のメロディと同様、死者側が生者側に向けるメッセージとして登場するのだ。そしてこの物語は実在の曲と物語内のみに登場するオリジナルの曲が時折引用されながら進む、そして生を取り戻すまでの音楽物の話でもある。*3って言ったら加藤シゲアキのファンに怒られるとは思う、極論過ぎて

何というか、たぶん宮田俊哉加藤シゲアキの作品を、特に「閃光スクランブル」を読んではいないと思っている。読んでいたらここまで似通ったメッセージをまっすぐに伝えられないとは思う。

「僕は死ぬように生きていたくない。」

「生きていても、何もやらずに止まったままだったら、死んでるのと一緒なんだと思う」

でもこんなに共通してしまったメッセージは、あの事務所のアイドルとして、もしくは芸能や表現の世界に生きている人間が考えることとして、共通しているからなんだろうなと思う。

 

処女作や初期の作品はどうしても、作家の原風景が反映されるものだとは思っている。本人が一番自信を持ってうまく書けるものは本人が体験してきたこと。プレバト見ててもそう思う

オタク兼アイドルが描いた物語であることによる深みは、(帯コメントを担当した藤ヶ谷さんも言及しているように)各関係者の台詞として反映されている。「売れるために必要だと思うものは、最低限の技術、物語、魅力です」「ファンが見たいものって、(中略)夢に向かって必死にやってる姿だろ?売れる曲を狙って作ったって、そこに全力のパフォーマンスと全力の努力がなかったら誰も応援しない!」といった台詞の先に、宮田俊哉というアイドルは存在してくれている。

 

それと同時に、同じ年代のオタクとして、事務所を追ってきたオタクとして、宮田俊哉を追ってきたオタクとして、境界のメロディは他にも様々な彼の原風景が混ざって生み出されたものだろうと思っている。

 

本発売直前のタイミングで生出演したレコメンで言及していた「Angel Beats!」。
あの話をしていたのは、勿論ドラマCDの声優である佐久間くんとの代表的なエピソードであることも理由としてはあるだろうけれど、「未練を残した人間が成仏するまでの物語」「ピアノの音が印象に残る物語」「音楽をきっかけに再会する物語」であることという共通項が意識としてあったからなのではないかと思う。

宮玉三部作。「かにたま」という妙に聞き覚えのある響き。「星に願いを」で死者を想って奏でられるメロディ。

サムライアーのメンバーの関係性はキスマイというグループで活動してきた経験が反映されているとあとがきで明言されているし、カイはさほどSnowManに詳しくはない私ですら、佐久間大介の姿しか重ねられない。

「DREAM BOYS」。夢の象徴であるベンチ、弾き語りされる曲、本人が歌わなかった曲を他のグループが継いでそれによるトラブルが発生する点。*4

そして「SHOCK」。このブログでも頻繁に言及しているように私はSHOCKが大好きで、若干誤った解釈でこの物語は私の魂に刻み付けられており*5なんにでもSHOCKをこじつけながら生きているのでハイハイいつもの怪文書ねと読み流していただいて良いのだが、
序盤の「それでも良いじゃん。幻想だったとしても、またこうして会えたんだから。ずっとこのまま一緒にいられれば……」(P39)というキョウスケの台詞にも、「この雑誌だって一つ連載が終わったら、新しい連載が始まるだろ?」(P44)というカイの台詞にも多少言い回しとしてSHOCKの香りを感じたし、それ以外の台詞も、続けるために・立ち止まらないために一緒にパフォーマンスを行う終盤の展開も、似通っている部分があると感じた。

宮田俊哉のアイドル像の原点である「堂本光一」という存在の象徴のような作品であり、宮田俊哉が人生で初めて観た舞台であることを考えても、この物語が「境界のメロディ」に影響を与えていることは想像に難くない。*6

 

ある種、脚本も文学作品の一つではある。表現を続けなければならない。名を残さないといけない。生きている限り。死んだとしても、未来に何かを繋いでいかないといけない。それはやっぱり、私が愛する事務所で輝く人たちの根源にある魂なのだと思っていたい。

 

 

Recordの語源は、取り戻す(Re)+心(cord)だという。心に刻む、心が思い出せるように記録をする。

私はたぶんあまり、音楽と共に生きてきた人間ではない。好きなアーティストの曲しか聴かないし、好きなアーティスト以外の曲を聴いてもすぐに飽きてしまう。ライブは大好きだけど生音ではない収録音源でも大して満足度は変わらないと思う。曲に感動して心を動かされることはあるけど、本質的には歌詞に感動しているタイプだという感覚がある。メロディで人とつながることは上手ではない。だからそういう意味では、キョウスケとカイに共感することはできない。*7

 

けれど、記憶を失っても、大事なことが零れ落ちて行っても、最後に残るもの・心に刻まれているものがきっとあるだろうと描く物語には深く共感した。生前のカイが音楽とそれにかかわる人々によって形作られてきたように、私も周りの人たちと、言葉と物語、何よりもアイドルが紡いできた言葉で出来ている。そして生業は表現の世界とは程遠くとも、何かを返せればいい、何かを形に残したいと願ってブログを書いて言葉を残している。

今ほとんどアイドルの言葉で出来ている私は、これからも彼らの言葉を吸収して形作られていくし、最後に残るものもたぶんアイドルの言葉なのだと信じている。いつか全てが無くなった果てに残るかもしれないものの一つとして大好きなアイドルが書いた、純度の高い言葉の塊として「境界のメロディ」が刻まれたことが本当に嬉しいなと思った。

 

改めて、宮田くん、作家デビューおめでとう!!

*1:どういう自負だ…?とは思うけどファンになったこと無いアイドルの文章も結構読んでる方だとは思う、インタビューも好きだし書いた文章は特に好き、買った雑誌の連載にいたら読むし最近は多すぎて全然読んでないけど大昔はジャ…ファミリークラブウェブに掲載されている文章を全タレント分読んでいた

*2:当時この時系列はあまり認識せずに読んでたので、読み返したらキョウスケより圧倒的に長くてちょっとビビった

*3:ちなみにピンクとグレーは実在の映画と曲と物語内のみに登場する映画と曲を複数引用しながら進んでいく、閃光スクランブルも映画の話してるけど、ピンクとグレーは曲より映画の方が印象に残る気がする

*4:細かいことを言い出すと無許可カバーで物語が荒れるのは初期のSHOCKが元ネタだと思われる/「Never My Love」を始めとしてただのアーティストあるあるなのかもしれない、よく勝手に曲が降りてた話は聞くし、例えばキスマイの「海賊」もKAT-TUN用の候補曲だったとか聞いたことあるし

*5:ピクトグラムの感想書きながら私は結局永遠に曲解したままの認識を変えられないんだろうなと思った

*6:5/21の宮田俊哉のスケジュールはEndless SHOCK観劇→レコメン生出演で境界のメロディの宣伝だったりする

*7:「ともに」に関するブログとか長々と書いてるくせにこんなこと言うのも申し訳ないけど