星がきらきら

Mais comme elle est loin!/遠き七つの星へ愛を

キスマイとショーマストゴーオン

「あなたにとってのShow must go on、走り続ける意味とは何でしょう?」

SHOCKという物語において、冒頭でオーナーはそんなことを問いかけてくる。
Show must go onとは一体何なのか、それは事務所のアイドルを追うファンに付きまとう命題でもある。

「Show must go on」という言葉には多義性がある。「"あなた"にとっての」、つまりそれぞれ違う意味のShow must go onがある。少なくともわたしはようやく、その答えを見つけた。わたしにとってのShow must go onは、キスマイのことだ。

事務所と、SHOCKと、Show must go onは密接に関わり合っている。
「『SHOCK』は、僕の人生観を変えた作品です。」北山宏光はパンフレットでそう語っていた。それを読んでから、彼はSHOCKのどの部分を自分の人生に取り入れたんだろうと、そしてShow must go onをどう解釈しているのだろうと考えていた。
彼はキスマイの誰よりも"事務所所属"ということに誇りを持っている人のように思っていた。恐らくその誇りは「所属していた」という誇りに変化して、退所後も残り続ける。そして彼は、そのShow must go onの魂をもって事務所を愛していたのだろうと、根拠もなく思い込んでいる。

"Show must go on"という言葉自体は事務所の専売特許ではない。オーナーが語るように、ショービジネスの世界で語り継がれる言葉。「幕が上がったら何があっても最後まで続けなくてはならない」、そういう意味の慣用句である。
Show must go on(以下SMGO)という言葉の事務所内での正式な初出タイミングは有識者に任せるが、この辺のメンタリティを言語化・確立したのは夏の青山劇場舞台の場と考えられているはずだ。

そして現存でこのSMGOを最も色濃く引き継いでいる舞台がSHOCKとなる。
SHOCKの物語を、私は以下のように解釈している。
立ち止まることを恐れすぎてショーに殉じたコウイチ。ライバルはコウイチのようになろうとするが、蘇ったコウイチによりその必要がないことに気づき、時々立ち止まりながらでも、仲間とともにショーを長く続けていくことを死んだコウイチに誓う。

このストーリーラインは、恐らく1995年の夏の青山劇場舞台が下敷きになっている。この細かいあらすじも有識者に任せるが、これも平たく言うと立ち止まることを恐れすぎた男がエンタメに殉じ、その弟子のようなポジションの男が、苦悩の末に彼のようにエンタメに殉じるのではなく、生きて進み続けることを選ぶ物語なのだ。

博多座のヒロミツは、この下敷きの物語に特に忠実だったような気がしている。1995年の物語では、若い世代の方の男が、練習を重ねることで上の世代の男に似ていったという背景が語られる。コウイチに明らかに寄せているライバルが、コウイチとは違う選択をする物語として捉えやすかったのだ。

 

当初、退所が発表された時点で、わたしは北山さんはそれらの物語の主人公のように立ち止まることを恐れ、死を選んだ男のように見えていた。

現行のSHOCKではそういった描写はあまりないのだが、1995年の夏の青山劇場舞台では、上の世代が死を選んだ瞬間も、その弟子が生か死の選択を迫られた瞬間も、「そのスターの人気が衰え始めている」ということを描いていた。SHOCKと違って仲間の存在があまり描かれなかった上で、停滞を選ぶくらいなら死を選んだ男と、停滞を選んででも進み続けることを選んだ男の物語だったのだ。*1

私はこの物語の存在をもって、事務所は「一番良いところで終わる」という形を否定出来る事務所なのだと思った。収益が若手に及ばなくてもグループを存続させられるのはこの魂が根付いているからなのだと思っていた。*2

そして北山さんは、グループでの活動に対してピークを過ぎてしまったと認識し、生き急ぐように退所という名の死を選んだのではないか、と少しだけ思っていた。*3

 

しかし、退所発表直後のキスラジで彼は「人生長いから」その選択をしたのだと言った。死ぬわけじゃない、と。それで私は認識をようやく改めた。もしSHOCKの物語で例えるのであれば、この結末は、コウイチが立ち止まってカンパニーから降り、走り続けさせてくれた仲間とも別れ、自分だけの"上"を目指すようなものだ。*4そしてこの場合はコウイチが死なないし、ライバルもきっと上を目指せる。過去の物語とは異なる、自分だけの正解を選んだのだろうと信じることができた。

 

ただ、これだと少しだけ説明がつかない部分があった。パンフレット単体だとどちらとも取れるが、他のインタビューを総合して考えると、北山さんの人生に影響を与えたSHOCKは、自分の演じたSHOCKではなく、入所直後に観た・出演したSHOCKであると考えるのが妥当であったからだ。

そして、観たことがなかった少年隊の映像を観せてもらった、という舞台裏エピソードが出てきていた以上、北山さんは下敷きとなった夏の青山劇場舞台複数作を観ている可能性も低かった。

 

なんというか、現行の物語ではSMGOの定義を
①トラブルが起こってもショーを続けること
②上を目指し続けること
と一幕で仮置きした上で、二幕では①と②を軽く否定し*5、最終的に
③立ち止まってでも生涯ショーを続けること
としているような気がする。

だが、北山さんがかつて観たSHOCKとそのSMGOが意味することは少し違っていたはずだ。

 

2004年以前の初期SHOCKのストーリーラインは、*6カンパニーのスターが、大怪我をして踊れなくなった義理の弟の居場所を守るために、コウイチがカンパニーの幕を降ろさず踊り続け、無事義理の弟が戻ってくる話である。

そしてこれは1991年の夏の青山劇場舞台*7が強く下敷きになっていると思われる。1991年のSHOCKは、アイドルグループのメンバーが、大怪我をして踊れなくなったメンバーの居場所を守るために、代役を入れながらもグループを2年存続させ、無事メンバーが戻ってくる話だ。*8

つまりSMGOの源流は、アイドルグループが、いなくなったメンバーの居場所を守る話なのだ。

どんなことがあっても幕は開かなければならない。待っているお客さんがいるから。待っているお客さんを失望させてしまったら、グループが終わってしまうから。グループが終わったら、メンバーが戻ってくる場所もなくなってしまうから。物語にあったのはそんな理論だったと思う。

だから、そこにかつてあったSMGOの定義は
①トラブルが起こってもショーを続けること
②長く居場所を守るために、ショーの幕を開き続けること
の二つだったのじゃないかと私は考えている。

 

私はずっとキスマイのことを「優しくないSMGOを守ってるグループだ」と何となく思っていた。振り返ることなく、現行のSHOCKでは二幕で軽く否定されているはずの「トラブルが起こってもショーを続けること」と「上を目指し続けること」を最優先にし、とにかく突き進んでいくグループ。肋骨を骨折しているにも拘わらず、誰にも言わず痛み止めを服用しドリボの主演を完遂した玉森さんのエピソードは代表的なそれだと思うし、様々なトラブルがあっても絶対にキスマイとしての歩みを止めない懸命さからそれを常に感じていた。

 

でも、本質はその二つだけでなく「長く居場所を守るために、ショーの幕を開き続けること」という、いわば源流の方で濃度が強かったSMGOを守っていたグループだったのかもしれない。

 

1991年のSHOCKでは、グループを怪我で抜けた男は自分で曲を作り、歌い、一人の道を進もうとしていた。

正直な感想を言うと、グループに引き戻そうとする二人を映像で初めて見たときは「いやもう要らんことしないで?!」という気持ちになっていた。戻るまでかなりわちゃついてた、今上演したら恐らく色んな突っ込みどころが発生する。DVDが発売されている2002年のSHOCKでも居場所を守るみたいなくだりはあるが、それよりも更に要らんことをしている。*9

 

それでも結局、男は戻ってきた。戻れる場所があったから。ただ、大事なのは戻ってくることや戻そうとしたことそれ自体ではなく、二人が居場所を守り続けられていたことだったのだと今になって思う。

 

離れても迷ったら待っているよ 帰る場所は此処だから

「ともに」のこの歌詞は、「居場所を守る」という大きな覚悟と優しさを表すものだ。きっと。

キスマイの旅路には、「残酷な景色」という言葉を自然に歌詞に含めてしまうくらいには、多くの困難があったと思う。3人と4人がバラバラになって活動することもあった、先達がいなくなることもあった、けれど彼らはエンタメを止めなかった。7人で居る場所を保ち続けていた。

そこに北山さんが、そしてキスマイがかつてのSHOCKから受けていた影響を見出すことは、そこまで酷いこじつけではないと思う。*10

 

今のSHOCKに息づくSMGOも、かつてのSHOCKに息づいていたSMGOも、そこに潜む厳しさも優しさも全て内包しているのがキスマイの7人だ。

私は事務所に所属しているタレントと所属していた多くのタレントを愛している、その理由は多かれ少なかれ彼らがこのSMGOのうちの何らかを内包していると感じられているからだ。

その濃度が最も濃いキスマイに堕ちたのは必然だったのだろうと「ともに」をきっかけに思った、そんな記録でした。(先に書いたこと拾いきれてない尻窄み文章)

*1:現行のSHOCKではライバルのショーがクローズされることは語られるが、ライバルの実力不足が示唆されるものであり、次の若い世代が出てきたからとかそういう理由ではない

*2:物語上は「どちらの選択も間違ってはいない」みたいなことは言っていた

*3:だからTwitterで「北山さんは解釈間違ってると思う!!!」と暴れていた

*4:「もっと上を目指してほしいんです」の台詞からの言語感覚

*5:①に関しては剣が本物と気づいた時点でショーを止めればよかったみたいなことを言ってるし(まあ真剣を渡されても続けたライバルのことを褒めてたりするんだけど)、②は明確にオーナーの台詞として咎められてた記憶がある

*6:多少トンチキが混ざるのだが

*7:この題名こそが"SHOCK"である

*8:この1991年の"VHS"は比較的良心的な価格で中古を買うことが可能らしいので、機会と機械があったら見てほしい

*9:細かいことを省くが、某ボクシング舞台で入院してる弟をよそに踊るアイドルグループの感じとか(※年度による)、某ボクシング舞台で主人公が作った歌を勝手にアレンジするとか(※年度による)、あの「いや…え…ひどくない?」の感じがあるし、あれもたぶん夏の青山劇場舞台が元になっている

*10:実際はともかくとしても、格差終了の印として位置づけられていたっぽいHOMEの歌詞も「ただいま」「おかえり」な訳で