星がきらきら

Mais comme elle est loin!/遠き七つの星へ愛を

茶封筒の日に寄せて

キスマイの苦難を思うとき、私はこの一節を思い出す。

ぼくら以外のところにあって、しかもぼくらのあいだに共通のある目的によって、兄弟たちと結ばれるとき、ぼくらははじめて楽に息がつける。また経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと。ひと束ねの薪束の中に、いっしょに結ばれない限り、僚友はないわけだ。もしそうでなかったとしたら、現代のような万事に都合のよい世紀にあって、どうしてぼくらが、砂漠の中で、最後に残ったわずかばかりな食料を分ちあうことにあれほど深い喜びを感じただろうか?この事実に対する、社会学者の憶測などに、なんの価値があろう!ぼくらの仲間のうちで、サハラ砂漠におけるあの救援作業の大きな喜びを知った者にとっては、他の喜びはすべてかりそめとしか見えはしない。

サン=テグジュペリ(著)、堀口大學(訳)『人間の土地』

もともとサンテグジュペリの文章は、オタクと妙に親和性が高い気がしている。一番有名な『星の王子様』、私はあの物語のことを、バラを愛ですぎて解釈違いを起こし距離を置いた王子様が、他の論理で動く人たちと出会い、自分の星にあるたった一本のバラも本当はいっぱいあることを知り、それでも一緒に時を過ごしたバラが自分の心にとって特別であったことを知り、自分の星に戻っていく話だと勝手に思っている。

どう考えても偶像とオタクの教訓話だ。王子様がバラを語る描写、もしくは「僕」がそんな厄介ヲタク一歩手前の王子様のことを見つめる描写、今すぐネットに転がっている文章(全文)を読んでくれとしか言えない。

それと同じ作者が書いた『人間の土地』は、物語というより作者自身の経験談を記した文章と言った方がいいかもしれない。ものすごーくざっくり言うと、郵便機操縦を職業とする「ぼく」が、同僚と共に砂漠に不時着・遭難し、めちゃくちゃ苦労したのち遊牧民に見つけてもらい、なんとか生還した話である。*1

そして総括のようなパートに入ってからの内容として、冒頭に述べた一節があった。文章を再構築すると、以下のようになるのではないかと思っている。

僕達自身の力ではどうにもならないが、共通で目的とする物事を達成しようと団結するとき、僕たちは初めて楽に息がつける。また遭難の経験によって、愛するということはお互いに顔を見あうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと知った。一つの集団で目的を分かちあわない限り、仲間とはなれないわけだ。そうでなかったとしたら、現代のような万事に都合のよい時代で、なぜ砂漠の中で最後に残ったわずかばかりな食料を分ちあうことにあれほど深い喜びを感じたのだろうか。この事実に対しては他者の憶測には何の価値もない。サハラ砂漠で助けられたときの大きな喜びを知った者にとっては、他の喜びはすべてかりそめとしか見えはしない。

これに含まれる「愛するということは互いを見つめることではなく、いっしょに同じ方向を見ることである」というフレーズはサンテグジュペリの恋愛の名言として一人歩きしているが、実際は色恋ごとではなくもっと深い同胞への愛情に基づく言葉だった驚きを共有したい気持ちは置いておくとして、

キスマイを原因として*2この文章を初めて読んだとき、これは私がキスマイを想うときのためのフレーズにするために出会ったんだろうなあと感じたのであった。

ジャニーズJr.という職業でいることは、先の見えない砂漠のような世界にいることだと思っている。今でこそ少し違うが、数年前まではグループが出来てもいつの間にか解体されたり、メンバーが変わったり、いつの間にか人がいなくなったり、そもそもグループ入りの基準も全く分からないような状態で、デビューなんてまさに浮かんでは消える蜃気楼みたいなそれだった。キスマイがJrだった頃を知らない身ではあるが、ある時代のその世界のことはそれなりに見届けてきた。

キスマイを愛するようになって、彼らの過去に想いを馳せるとき。後輩にデビューを越され、どうすればその彼ら自身にはどうしようもないものを掴めるのか分からないその中で、それでも運命を共にし、労苦を分け合った彼らが茶封筒を手にした日、その喜びはどれほどのものだったのだろうかと想いを馳せる気持ちが、この一節に重なった。

昔も今も彼らが同じ方向を見つめる僚友であることは疑いようもない。疑いようもなくても、デビューして10年以上経った今も絶え間なく試練は降り注いでしまう以上、これからもずっと楽に息がつける一束の薪束であって欲しいと願う。空を飛ぶ限り砂漠は永遠に広がり続け、これからもその地に投げ出されることがあるかもしれない。それでも何度でもまた、彼らは空へ飛び立とうとし続けるのだろうから。

 

茶封筒の日から11周年、おめでとう!!!!!!!

 

余談ではあるが、冒頭の文章の後にはこんな一節が続く。

ともすると、これが理由となって、今日の世界がぼくらの周囲に軋みだしたのかもしれない。各自が、自分にこの充実感を与えるそれぞれの宗教に熱中する。言葉こそは矛盾するが、だれも皆、ぼくらは同じ熱情を云々しているのだ。ぼくら個々の理性の果実なる方法こそは異なるが、目的は異ならない、目的は同一だ。

2月9日に上がったキスログを見ながら「個々の理性の果実なる方法こそは異なる」ってこういう文章の七者七様に表れてるな~と思ったし、

初めて読んだ時この「宗教」の用法がどう考えても現代オタクのそれだったのでどうなってるんだ?と思った。サンテグジュペリ、もしかして今を生きてない?

*1:文章のボリュームとしては職場の話の方が長く、かつ外国文学特有の読みづらい感じなので読み込めてる気がせず要約としてはあまりよくない表現です、気になる方は購入をお願いします

*2:キスブサの北山劇場で引用された「真実の愛とは、もはや何一つ見返りを望まないところに始まるのだ」という名言の元ネタを読みたくてまとめサイト内の出典をみて読み始めたのだが、この文章は無かった(たぶん元ネタは『城砦』に載ってる、誤記述)