星がきらきら

Mais comme elle est loin!/遠き七つの星へ愛を

灰になる前に、灰になる前に(灰になる前に考察⑤)

(6/1追記:テレガイalpha読んでまあまあ変えたくなってるけど記録のために残してます)

 

これまでの考察は箇条書きという形で逃げに走っていた部分もあるけれど、最後にどういうストーリーなのか、過去の箇条書きとはだいぶ違うことを書きながらも、今の私の解釈をまとめておこうと思った。所詮は自分の思い込みでしかないので、正解はきっと全く違うところにあるし、あるいはそれぞれにあるのだと思う。

 

前提として、明確に一本筋の通ったストーリーはあるものとして考える。それは本人が何となく言っているところでもあるし、こういった映像作品は中身がモチーフの積み重ねであったとしても一つのストーリーを持っているべきなのだという論を知った。

 

今回の物語は確実に彼のパーソナルな部分に沿った物語であると感じている。

一点特に考察が難しいと感じた要素があった。それはMVの説明文にある「崩れ落ちていく世界」の解釈だ。

最終的な答えは彼が周りの世界をどう認識しているか、ということになるのではないと思い、彼のターニングポイント的な部分から考えてみようとしたときに、今の世界とキスマイのデビュー前夜の世界はかなり似ているのではないかと考えてしまったのだ。

2011年頃にはリーマンショック後の不景気と、加えて3.11による先の見通せなさがあった。今の時代はコロナ禍と、漠然とした低迷を感じる。その一方で、2011年は彼らが華やかにデビューをした年であり、2021年の彼らは周年を迎えはしゃいでいるように見えるし、怒涛の仕事量をこれからガンガンこなすぞという意気も感じる。

(他のメンバー企画も含めてではあるが)これは一週間や二週間で考えられるようなものではない。殊に北山さんについては快感インストールの企画を数年前から温めていた人間であり、「この話をいつ考えたのか?」が読めない。

けれど最終的には、今この映像を出す意味を考え、結局は過去をオマージュしながらも「今」を描いた物語ではあるのだろうとは思うようになった。

 

与えられた公式の説明文は以下だ。

今作は崩れ落ちていく世界で行き場を失った人々。
こんな世界に日に日に、ストレス・苛立ちが募るばかり。

それでも、歩むことをやめず生まれ変わるために光を探し求めた希望に満ちた1曲となっています!

MVは北山自身が監督・監修を行い初のカメラマンにも挑戦。
「苛立つ男」と「マウスアングル」という今までになかった目線で
渋谷の街並みを北山が撮影し「苛立つ男」と「マウスアングル」の2つの目線がシンクロした新感覚なMVが完成!

誰が書いたかは分からない。企画段階の資料を読んだスタッフが適当にまとめただけかもしれない。けれどこの文章を正しいものとして捉えれば、以下のヒントを拾うことが出来る。

・『歩むことをやめず』からは男が元々歩んでいたことを。

・『「苛立つ男」と「マウスアングル」の2つの目線がシンクロ』からは、マウスアングル=苛立つ男の視線であることを。

そして『希望に満ちた1曲』であることを。

解決しなければならないのは、何をもって『崩れ落ちていく世界』なのかという前述の問題と、なぜ彼が苛立っているのか、である。

 

フルのMVは、Youtube尺と異なる印象を与えてきた。Youtube尺は、起承転結の四幕構造。区切りはテレビ投げ・赤ペンキ・ネズミ視点に戻るところ。

だが、フル尺はどうやら五幕構造だった。画面の静と動が切り替わるところ及び曲で分ければ、区切りはテレビ投げ・グラスが落ちるところ・ネズミ視点に戻るところの四か所となると考えられる。

「五幕構造」というものは、伝統芸能から西洋演劇まで古くから使われる構成の一つである。詳しくは調べて欲しいが、今回はこの型にある程度嵌めて物語の展開が為されたと考える。置・出端とか提示部とか起承鋪叙結とか色々言うらしいが、自分が慣れない言葉を使っても仕方ないので今回は①~⑤でストーリーを分けて書いていきたい。

【①(~1:11、イントロ・Aメロ・Bメロ)】

>5幕構成である場合、物語を理解するための背景情報を提示するパート。誰が主役で、どういった人間であるかを受け手に示す役割。

私たちファンには事前説明が与えられている(もともと歩いていた・ネズミ≒男)ほか、舞台背景がアトリエで物を作る場所であることから、男は元々何かを作る必要があったことを示される。

(また、この時点でわずか3カット目にバンクシーのネズミが登場する。これは、「彼が最終的に自分の力で飛ぶ*1」という結末を暗示しているほか、メリー・ポピンズの物語のように縛りの多い立場であったことも示しているように思える)

男が苛立っている。ネズミがいるのは深夜の人が少ない通りが中心であり、人影がある場からすぐにその場から逃げ去っているように見える。一方で電車を見上げるアングルは、「電車に乗れない」、つまり「人に置いていかれている」という感覚を表しているように見える。一方で男自体は殆ど動かないことから、「逃げ場がない」「動けない」という停滞にあることが表される。

①の終盤、彼はテレビを見る。テレビというものは、彼がいる世界であると同時に、受け手と送り手を阻む最も大きな境界線であり、フィルターなのではないかと個人的に思う。テレビに映されているのは、男がマウスアングルで見た景色だ。ただ流されたそれは、編集されて実際に見たものとは異なる印象を抱かせるものであり、他は砂嵐・言い換えれば「見えていない」状態であった。私は、男は彼にとって正しくないものを映す世界に対して苛立ちを抱えているのではないかと感じた。灰というのは触ると崩れるものである。元々あったはずの姿・アイデンティティを、何かのイメージや視点・切り取りによって崩されてしまう前に、その状態を「変えたい(生まれ変わりたい)」と願ったことをきっかけに、物語は②へ移行する。

【②(1:11~1:35、サビ)】

>5幕構成である場合、(一概には言えないが)物語における障害が示され、戦いといった出来事が展開する。

やっていることは、「破壊」の一言に尽きる。マウスアングルでは工事現場の横と道路工事現場が映され、工事作業を見ている、という点でも部屋内のカメラとシンクロが発生している。

変わりたいが変われない葛藤を描いているのだろうし、①の考察を繋げると、既存のイメージや、後天的に男を構成していたもの(本は知識、ギターは音楽、ペンキは他の人間)の破壊を行っているのではないかと感じた。鏡への攻撃は「映る」ものの否定。

最終的に彼は後ずさる。これは心理状態としては逃げたいとか・諦観を表している。ただ、その後ずさりの一歩によって起こった出来事が外の世界に反映される。変わりたいと願って行動すれば、それが諦めた頃であったとしても、良いか悪いかは分からなかったとしても、何らかの成果は出る。それを示した上で流れは③に移行する。

【③(1:35~2:26、ラップ・Aメロ・Bメロ)】

>5幕構成である場合、転換点に当たる。ハッピーエンドの物語であれば、事態が良い方向に変化を示す。

カメラはかなりざっくり分ければ、俯瞰→マウスアングル→通常の視点(何をもって通常かは自分でもわかっていないが何となく通じてほしい)で三パートに分かれる。このパートだけで登場するのが俯瞰視点となる。

序盤の俯瞰のカメラでは初めてこちらと目が合う。②からの繋がりで言えば、後天的な要素を一度破壊しつくして属性を無くした男は一度内省に戻り、見られる(イメージを作られる)側ではなく見る側に回って、自分が置かれている状況を認識しようとしたのではないかと考える。

その状況自体は、下の立場ではある。目線は上に向く。主従で言えば従にいると認識を行う。俯瞰は確実に視聴者の目線を意識させていると考える。一瞬顔を手で覆い隠そうとしたり背を向けるものの、最終的には私たちの方を見て口角を上げる。何か、こちら(視聴者の視線)と向き合うための心を決めはじめたようにみえる。

マウスアングルでは、序盤と異なりビルなどの人が留まる場所を見ている。見上げるという意味合いでは部屋の男と視線が確かに一致する。部屋の中のものがペンキに浸食されるのを特に止めることなく、ネズミは少しずつ人の多い方へ移動する。

そして見上げることをやめた彼は、自らの身を自分の手で染めることを選ぶ。化粧行動は他者や世間の関心を前提とした自己実現の行為である。また、一度は否定した鏡に、「映る」こと、染まった状態で「映る」ことを選んでいる。

【④(2:26~2:51、サビ)】

>5幕構成である場合、ハッピーエンドならば解決が示される。

赤のペンキをぶちまけるところから光が差し込み画面の色彩が変化する。トンネルを抜けたことを示す、明確な解決である。カメラはずっと通常の客観の視点ではあるが、マウスアングルを通すまでもなく男は笑顔でいる。

ペンキの色彩は、ざっくり他者を表すのではないかという話は当初からし続けてしまっている。赤を壁にぶちまけたのは自己の確立であり、後天的に与えられたイメージを真に受け入れたことを示していると考える。受け入れた後は、当初否定していた他の色(他者からのイメージや干渉)を受け入れ、既に否定したものにも色があったことを認識し、かき混ぜ、丸ごと楽しむような姿勢を見せる。時々どうしようもなくなって座り込むこともあるが、作品としては否定しない。 アイデンティティを再構築し、「作品が出来た」と認識した彼は部屋から姿を消す。

【⑤(2:51~、サビ・アウトロ)】

>5幕構成かつハッピーエンドである場合、大団円として、物語の始めより良い状況になった状況を示す。

カメラの視点は、マウス=男であり、最終的には視聴者のものとなる。

この場面では、それまであくまでシンクロに過ぎなかったネズミと男の視点が完全に一致する。心理状態と、現在のありのままの状態が統合されたことを示しているように見える。(また、アトリエから脱し作品を展示する場への移動とも感じられる。)

いざ視聴者と目が合うタイミングでは彼は動かない。また、この目線は部屋の中と異なり対等の場所にある。これは男自身が、見られる対象のことを恐れなくなったためのようにも思える。

そして、10年以上前のCMと重ねるようにして、こちらにメッセージを投げてくる。それはやはり、これから「解禁」を行うぞという予告であり、挑戦なのだろうと思った。

 

一言で言うと、男がアイデンティティを再構築するまでの物語なのではないか、という解釈をしている。

そしてこれがなぜ今出されたのかと言うと、何らかのメディア・フィルターを通してしか人に認識されない今の時代へのもどかしさがあったからなのだろうと考える。私は一度も彼らのいる現場に直接足を運んだことが無いので、彼がアイドル活動においてどれほど直接会えるコンサートに比重を置いていたのかを知らないが、少なくとも直接目に触れる機会をとても大事にしていたのは確かだと思う。また、もう本当にただの思い込みでしかないが、彼自身にはフィルターを通せば通すほど(それこそいわゆるネット炎上のようなことも含めて)自分が誤解されていくという感覚があるのではないかと邪推する。そして、それでも良い、それだからこそ作れるイメージもあると割り切ったことを表すのが最後の結末なのではないかと思っているのだ。

 

他人の頭の中を考え察することなんて、出来る訳が無いんですけどね……。

 

※配信は顔に塗ってから破壊を行うという順番だったのでこの解釈だと若干の矛盾は発生するが、最初からカメラ目線であることから物語としては③からスタートしており、かつ破壊と創造は紙一重であったものと解釈すれば大きなズレは出ないのではないかと考えた。顔にペイントをしてからの行動にはそこまで迷いがなかったことからも、「赤いペンキを撒く」という解決方法を知りながらそこまでの過程を楽しんだのだろうと。MV内の男は序盤他者からの視線から逃げているが、配信の男は他者の視線をずっと認識している。また、配信の男はMV④内の行動は歌っていることを除けば赤いペンキを撒くことしかしていない。上手く説明が出来ないが、配信は現時点で最もフィルターの少ない手段なので、何か特別な行動をするまでなく渋谷の街にいることと同義になるというか…

*1:「裸の時代」読み返して彼は跳ぶ人だよなとも思った